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横浜地方裁判所 昭和56年(ワ)2975号 判決 1985年8月14日

原告

青木史江

青木憲二

青木哲也

右三名訴訟代理人

小林章一

飯田伸一

右三名訴訟復代理人

森田明

被告

医療法人社団黄十字会鈴木病院

右代表者理事

鈴木元実

被告

鈴木進

右二名訴訟代理人

高田利広

小海正勝

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、各自原告青木史江に対し、金一、六九一万二、七二五円及び内金一、五三七万五、二〇五円に対する昭和五五年七月二〇日から支払い済みに至るまで年五分の割合による金員を、同青木憲二、同青木哲也に対し各金一、四七一万二、七二五円及び各内金一、三三七万五、二〇五円に対する右同日から支払い済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告青木史江(以下、史江という)は、青木正典(以下、正典という)の妻で、同青木憲二(以下、憲二という)、同青木哲也(以下、哲也という)は、正典の子である。

(二) 被告医療法人社団黄十字会(以下、被告法人という)は、同人肩書住所地において医療法人社団黄十字鈴木病院(以下、被告病院という)を開設、経営し、同鈴木進(以下、被告鈴木という)は、被告法人に雇われ、被告病院に勤務する医師である。

2  正典死亡に至る経緯

(一) 正典は、昭和五五年七月三日午前一〇時ころ、一人で散歩に出たが、帰宅することなく行方不明となり、同月六日、神奈川県横浜市神奈川区反町公園で半裸の状態で倒れているところを発見され、身元不明の病人として救急車で被告病院に運ばれ、同日午後四時ころ、同病院に入院した。

(二) 被告病院で正典は、被告鈴木の診療を受けたが、同月一八日ころ、呼吸困難、喘鳴という肺炎の症状が表われ、同月二〇日午前二時三八分、急性肺炎により死亡するに至つた。

3  被告鈴木の過失

(一) 正典は昭和五四年、慢性腎不全と診断され、その治療を受けていた者であるが、被告鈴木は、入院の翌日行なつた血液検査において、正典の血中尿素窒素値(以下、BUNと略称する)が七七・四mg/dl(以下、単位は省略する)もあり、また正典は入院当初から意識障害、記銘力、見当識障害など慢性腎不全症状を示していたにもかかわらず、慢性腎不全を診断、発見できず、従つてそれに対する食餌、薬物、透折などの適切治療を行わなかつたばかりか腎毒性の強い抗生物質(カナマイシン、セファメジン、コリスチン)を投与し、病状を悪化させた。

(二) 正典は大正四年生れであるが、もともと抵抗力、免疫力の弱い老人は全身状態が悪くなると肺炎に罹り易く、それに慢性腎不全が伴う場合はその可能性が増大する。

前記のように慢性腎不全に対する適切な治療を受けず、全身状態が悪化していた正典は可成り早くから老人性肺炎に罹患していたものと思われるが、適切な検査を怠つた被告鈴木はすみやかにその発見することなく、また発見後も腎毒性の弱い抗生物質(例えばペニシリン)を投与すべきにもかかわらず、前記のような腎毒性の強い抗生物質(カナマイシンなど)を投与して正典の病状、全身状態を悪化させ、死に至らしめた。

4  従つて被告鈴木は民法七〇九条に基づき、被告鈴木の使用者である被告法人は民法七一五条一項本文に基づき後記損害を賠償すべき責任を負う。

5  損害

(一) 正典の逸失利益 金九二二万五、万五、六一八円

(二) 慰藉料 正典 金一、五〇〇万円 原告史江 金七〇〇万円

原告憲二、哲也各金五〇〇万円

二  請求原因に対する認否

請求原因1の(一)、(二)は認める。

同2の(一)のうち、正典が昭和五五年七月六日身元不明の病人として救急車で被告病院に運ばれ、同日午後四時ころ、同病院に入院したことは認めるが、その余は知らない。

同2の(二)は認める。

同3の(一)のうち正典が慢性腎不全に罹患していたこと、入院の翌日行なわれた血液検査において正典のBUNが七七・四であつたこと及び正典に原告ら主張の症状があらわれていたこと、正典にカナマイシン、セファメジン、コリスチンを投与したことは認めるがその余は否認する。なお、被告鈴木は正典に対し、利尿剤を投与し、食塩一日六ないし八グラム、蛋白質一日三〇ないし五〇グラム、熱量二〇〇〇カロリーとする食餌療法も行なつており、正典の腎機能は、比較的安定した状態で推移していた。

同3の(二)のうち正典が大正四年生れであることは知らないが、被告鈴木が正典に対しカナマイシンなどを投与したことは認めその余は否認する。

なお、老人の脳血管性痴呆、高血圧、心不全及び慢性腎不全は、その症状が不可逆的で、根治療法はなく、対症療法のみでそれに罹患した患者は、予後が悪く、その多くは対症療法に持ち堪えることなく死に至つている。更に、右各疾患のいずれか一つでも増悪すれば救命は困難となり、肺炎を併発すると、救命は一層困難となる。

ところで、正典は、被告病院入院時、すでに脳血管性老人痴呆、高血圧、心不全及び慢性腎不全に罹患しており、入院後、脳血管性老人痴呆(器質性脳疾患)の精神症状が顕著に進行し、それにあわせて肺炎を発病したもので、そのような正典を救命することは至難の技である。換言すれば、正典に対し、被告鈴木がその時機に応じた適切な治療(本件では行なつているが)をしたとしても、正典を救命することは極めて困難であつた。

請求原因4、5は否認する。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1の(一)、(二)は当事者間に争いがない。

二同2の(一)のうち、正典が昭和五五年七月六日、身元不明の病人として救急車で被告病院に運ばれ、同日午後四時ころ、同病院に入院したこと及び同2の(二)は当事者間に争いがなく、〈証拠〉によればその余の事実が認められる。

三請求原因3の(一)のうち正典が慢性腎不全に罹病していたこと、入院の翌日行なわれた血液検査において同人のBUNが七七・四であつたこと、正典には入院当初から意識障害、記銘力・見当識障害が存したこと、被告鈴木が正典に対し、カナマイシン、セファメジン、コリスチンなどの抗生物質を投与したことは当事者間に争いがない。

しかし、被告鈴木が正典の慢性不全を見過し、適切な措置を何らとらなかつたため症状を悪化させたことを認めるに足りる証拠はなく、かえつて〈証拠〉、正典を撮影したレントゲン写真(但し、検乙第一ないし第五号証は、昭和五五年七月七日撮影、同第六号証は、同月一七日撮影)によれば

1  正典(大正四年一一月一八日生)は、昭和三七年ころ、高血圧症で約一週間、自宅静養をなし、昭和四七年ころ、急性腎盂炎に罹り約一週間自宅療養をなし、昭和五一年ころも三半規管などの病気で数日間自宅静養をなしたという病歴を有するが、昭和五四年六月ころ、多発性出血性脳硬塞及び慢性腎不全で倒れ、その治療のため、国立千葉病院、千葉社会保険病院などへ入院等した後、昭和五五年五月ころより同年七月三日家出をして行方不明になるまで、二週間に一度位の割合で右疾病治療のため、昭和大学藤が丘病院(以下、藤が丘病院という)に通院していた。

藤が丘病院通院時における正典には右脳疾患による神経症状として、記銘、記憶障害などがあつたが、慢性腎不全は、BUNが昭和五五年六月一七日に七五・八、クレアチニンが四・八mg/dlを示していたものの、腎それ自体の機能は、日常生活を営むのに差し支えない程度の状態(安定状態)を示していた(人工透析を必要とする状態ではなかつた)。また、同年五月一七日に行なわれた心電図検査によると、左心室が肥大し、そのT波に異常が認められた。

2  正典は昭和五五年七月六日、裸で前記反町公園で倒れているのを発見されて被告病院に運ばれ、当日午後四時同病院に入院したが初診時における正典の血圧は最高で一七〇、最低で一〇五、心音亢進、軽度の頻脈(毎分九六)、応答不正確、記憶記銘力、見当識の障害、歩行困難であつたが、(姓名、生年月日、住所、既往症は答えられず、入院後職業を写真屋、生れた年を大正一四年と誤つて答えた程であり、この状態は死亡まで続いた)呼吸や顔色などは正常であつた。翌七日も、そのような症状のまま推移したが、同日行なわれた血液検査(但し検査結果は二、三日後に判明)によると、BUNが七七・四(正常値は八ないし二〇)、また白血球が血液一cc中一万一、一〇〇個(正常値は五、〇〇〇ないし八、〇〇〇個)認められた。しかし、同日行なわれた胸部レントゲン検査の結果では、右肺中部に石灰化が認められたが、陳旧性のものであるという印象が強く、その後九日まで正典の症状には、これと言つた変化を認めることができなかつたが、翌一〇日の午前中からは発熱を繰り返すようになり、意識もまた傾眠状態となつた。同日実施された心電図検査では冠不全と頻脈が認められている。そして、同月一二日には食欲不振となり、幻視と睡眠障害が発現し、同月一四日には、手指振戦の症状も出はじめた。同日実施された血液、尿の各検査によると、BUNは、七八・八で、また、白血球数は血液一cc中一万四、六〇〇個にもなつていた。翌一五日には、頻脈、意識混濁も加わり、翌一六日には、下肢に浮腫が認められ、翌一七日には、尿量も六五〇cc(以下、単位は省略する)と減つた。なお、同日行なわれた胸部レントゲン検査によると、両肺野に陰影(気管支炎ないし気管支肺炎の症状)が認められ、翌一八日には、笛声音、喘鳴呼吸困難、不安状態、せん妾状態、心衰弱等の各症状が加わつてきた。更に、翌一九日には、亜昏睡、全身衰弱が加わり、翌二〇日、午前二時ころより瞳孔が拡大し、対光反応も消失し、同午前三時三〇分呼吸及び心音が停止し、人工呼吸などが行なわれたが、同三八分正典は、急性肺炎を主因として、死亡した。(なお、正典の尿量は入院当日は一、五〇〇、八日が一、〇五〇、九日が一、三〇〇、一〇日が一、四〇〇、一一日が一、一〇〇、一二日ないし一四日が各一、二〇〇、一五日が一、三〇〇、一六日が一、二〇〇、一七日が前記のとおり六五〇、一八日が六〇〇であつた)。

3  このような正典に対し被告鈴木は入院当日から昭和五五年七月一九日までラクテックG一、〇〇〇cc(複液)、サブビタン(総合ビタミン剤)、ウアバニン(強心剤)の注射、入院当日から七月九日までクライスリン(血圧降下、血液循環促進剤)を注射したほか、入院当日から七月二〇日までアルマトール(利尿、降圧剤)、セゴンチン(強心剤)を経口投与を行い、七月一一日から一九日まで抗生物質セファメジン、七月一一日から一六日までカナマイシン、七月一八、一九日にラシックス、七月一七日にコリスチンの注射を行い、七月一一日から一日当り二リットルの酸素を投与し、七月七日には前記血液検査のほか尿検査を行い、七月一四日にも血液、尿の検査、同月一六、一七日に尿検査を行い、右以外にも前記のような心電図、X線検査を行つた。

4  前記認定のように正典は初診時以降応答不可能であつたから、被告鈴木は問診により正典が慢性腎不全に罹つていることを把握することができず(その後、死亡までも同様である)、血圧が高いこと及び正典の診察時における前記神経症状よりして、脳の器質的疾患による意識障害があるとして入院措置をとつたのであるが、初診時における正典の全身状態は前記のように左程悪くなく、入院以後の尿量も七月一六日までは正常であつたので、七月七日の検査において正典のBUNは七七・四であつたものの、腎不全に対する別段の措置はとらず、七月一〇日の発熱以降は肺炎を疑い、七月一一日以降前記抗生物質(これらは腎障害をおこすおそれがあるとされているが、被告鈴木は正典の年齢に照らし、混合感染のおそれがあり、死亡の危険も大きいと思い、腎障害の少ないペニシリン系抗生物質を使用せず、著効を期待して、あえて前記カナイマイシンなどを使用した)を投与し、もつぱら肺炎の治癒に治療を集中させた(長沢潤らの研究によると、老人の死亡原因の約二七・九パーセントは肺炎であり(第二位の死亡原因である心不全、心衰弱は一九パーセント)、老人の肺炎罹患者の死亡率は四六パーセントとされている)

ことが認められている。

四そして右認定のように正典は慢性腎不全に罹患していたが、その症状は比較的安定した状態で推移していたこと、正典が被告病院に入院した際、意識障害があり、問診により被告鈴木が正典の病歴、既往症などを把握することはできなかつたこと、正典は昭和五四年六月、脳梗塞で倒れ、その後も神経症状が残り、昭和五五年七月三日家出をして行方不明になつたのも右症状のあらわれとみうること、裸で倒れていた、という正典発見時の状況、入院後の正典の尿量は七月一六日までは正常であり、腎機能はほぼ正常に機能していたとみられること、七月一〇日の発熱以降全身状態の急激な悪化、その後は危険な肺炎に対して治療を集中せざるをえなくなつたことなどの諸経過に照らすと、被告鈴木が正典の慢性腎不全を診断、発見しなかつたのはやむをえないものであり、そこには過失はないとみるのが相当である(慢性腎不全の診断、発見につき過失がない以上、それに対する治療措置を講じなかつたことを責められることはできない)。

五請求原因3の(二)のうち被告鈴木が正典に対しカナマイシンなどを投与したことは当事者間に争いがなく、正典が大正四年一一月一八日生れであること、同人が昭和五五年七月二〇日急性肺炎を主因として死亡したことは前記認定のとおりであり、前掲甲第三、第四号証によると、抵抗力、免疫力のない老人は肺炎に罹り易く、腎障害のある者は抵抗力が一層低下し、それに罹病し易い老人性肺炎は、その症状顕著でなく、潜行的に進行するため、その発見が困難であるうえ、それのみでもその予後悪く、老人の死亡原因の代表的なものとなつていること、そして脳血管障害のある老人の罹病率が最も高いことが認められる。

しかし被告鈴木が肺炎発見に対する検査を怠つたため、その発見が遅れたことを認めるに足りる証拠はなく、かえつて被告鈴木が正典入院後、直ちに老人性肺炎に注意して血液、X線検査などを行い、七月一〇日の発熱以降は肺炎の疑いを抱き、翌一一日以降抗生物質投与を開始したことは前記のとおりであり、また同被告が腎障害をおこすおそれのあるカナマイシンなどを投与した理由も前記のとおりであり、その措置は正典の年齢、老人性肺炎の危険性に照らすと不当とは思われないから、その点についても同被告を責めることはできない。

六してみると、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求は理由がないことになるから、これを棄却することとし、訴訟費用については民事訴訟法八九条、九三条本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官上杉晴一郎 裁判官田中 優 裁判官中村 哲)

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